そんな難しい迷路なんか作んな

すくすくと力強く育つ麦のように、頭髪が伸びてきて。一度気になったらどうにも気色悪く、今すぐ髪を切りたいという衝動に駆られ、私は鋏を手に取った。殺るか殺られるかのセルフカットの幕開けである。

途端、はたと気づいた私は、黙して鋏を洗面台に置いた。切るのはいいが、切った髪がばらばら落ちて床を漆黒に染めるのはかなわん。なにか工夫が必要である。

散髪用のケープでもあれば万事快調なのだが、ウチにそんな洒落のめした物などありゃしない。新聞紙を床に敷くというのも上策だが、ウチに新聞紙がないだけでなく、新聞紙を満足に広げるスペースさえない。

だったらいっそ、深夜帯を見計らって上半身裸で表に出て散髪するのが好いかもしれない。まき散らかした髪は、やがて風に乗って何処かに行くだろうし。これなら後片付けの気苦労もない。

だが、この企てにはいくつかの問題がつきまとう。半裸でちょきちょきやってるところを誰かに見られでもしたら「嗚呼、あいつは純然たる気違いだ」と思われ、場合によってはお巡りさんに通報されるかもしれない。「こんな所に髪をまき散らかすな!」と怒鳴られて逮捕されるかもしれない。

なにより鏡がなく、辺りも暗いために散髪の精度が大幅に減じてしまう。何がどうなってるのか判らない状態で、闇雲に鋏を入れねばならないのだ。結果、めったやたらにざくざく切って、あとで部屋に帰って鏡を見てあじゃぱー、という悲劇に見舞われるかもしれないのだ。

どうしようかと悩んだ末、とりあえず洗面台の前で心ゆくまで散髪して、そのあとで落ちた髪を掃除機で吸い込むという結論に達した。それまでの私は「髪をばら撒かない方法」に固執しすぎて視野が狭くなっていたが、ついに逆転の発想に至ったのである。髪などばら撒いてしまえばよい。むしろ髪などばら撒いてなんぼである。最後に掃除機で吸い込みゃあいいだけなのだから。掃除機はかしこい。

つうこって散髪開始。ゴング。

第1ラウンドは前髪。

慣れたものよ。前髪はいつも自分で切っておるので、あっという間に終了。はい、僕の勝ち!

第2ラウンドはフロント。

果たしてフロントという呼び方が正しいのかどうか、それさえわからないが、脳でいえば前頭葉にあたる部位である。

手櫛で髪を引っ掴んで、指の隙間から飛び出した毛をばしばし切り揃えてゆく。こんなものは適当だ。セルフカットに必要なのは勇気と勢いである。しょせん美容師じゃないのだから、どれだけ慎重かつ繊細にやっても底が知れている。素人なら慎ましく開き直れ! もしも人から「変な頭ですね。自分で切ったんですか?」と云われても「そりゃあ、プロじゃないからね。むしろ当然の帰結だろう」という理屈が通るのだ。

ともあれ前頭葉カット。鏡を見ながら切れるので致命的な失敗には至るまい。

それはそうと、前頭葉カットという略し方では、あたかも前頭葉を切除するようなニュアンスを他に与えて、穏やかではない。それはただのロボトミー手術だ。廃人になって終わりである。正確を期して「前頭葉の部位に生えた毛髪をカットする」と云うべきでした。

何はともあれ、無事に前頭葉をこなした私。第2ラウンドも頂きだ!

第3ラウンドはサイド。

サイド。すなわち「横っちょ」の意。ここでやや難易度が上がる。私は右利きなので、右側の髪は問題なく切れるのだが、左側の髪を切るのに少々難儀する。

ここで、自部屋がやけに静かなことに気づき、「音楽をかけ忘れた!」と思い、浴室を出てステレオの方に歩いてゆき、フェア・ウォーニングというドイツのハードロック・バンドをかける。その際、切った髪が私の頭部からぱらぱらと落ちて居間に散らかった。「ここも掃除せなあかんやんけ」と絶叫。

無事、両サイドを切り終えることができたが、左右の長さが1センチほど異なる。普通であれば、ここで左右の長さを切り揃えて好い塩梅にするのだろうが、私はそれをしない。どうせ1センチの差異など人の目から見たらわからないことを知っているからである。

左右が同じ長さを持つことに執心し、客の髪を指でいじり倒して目測する美容師の「ワシ、こだわってまっせ」といういちびったアピールがなんとなくむかつく。1センチ長かろうが短かろうが、そんなことは誰も気にしない。自意識の問題でしかないのだ。

というわけで第3ラウンド、辛勝!

第4ラウンドはバック。

いよいよ試合も大詰め。バックなんて西洋風に云ってみたが、要は真後ろである。最大の難所でござんす。

真後ろを苦手として早二十余年。これまでのセルフカットでも真後ろだけは決して手をつけることはなかった。なんか怖いやん。

「見えない」という心理的負荷と「切りづらい」という物理的負荷が、私の心をざわつかせる。まさに背後に立つ悪魔。

また、真後ろのカットに失敗しても、その失敗に気づかぬままバカ面浮かべてのうのうと毎日を生き、ある日「後ろ、ガタガタですやん」と人から指摘されてはじめて真後ろカットの失敗を知る、みたいな滑稽を演ずるかもしれないのだ。

そんなわけで、しばらく「どないしょ、どないしょ…」とまごまごしていたが、「ままよ!」つって切り始めた。勇気と勢いを胸に!

もちろん三面鏡なんて洒落のめした物はないので、視覚の外で執り行われる目隠し戦に応じなければならない。「わっかんねえー。今どないなっとんねん」、「ここってもう切った? まだやっけ?」などと呪詛のごとき独り言の様子から、いかに私が悪戦苦戦を強いられたかが容易にご想像頂けるだろう。

どうにか切り終えて手鏡で確認したところ、それほど変ではない。よかばい、よかばい。

安堵して掃除機をかけはじめる。掃除機の中にびゅんびゅんと取り込まれてゆく黒い毛髪たちは、光の魔法陣に吸い込まれてゆく邪悪な魂を私に思わせた。

ようやくセルフカットが一段落した。

第4ラウンドも私の勝ち。軽い打ち上げでもしようかな、と思った矢先、襟足のカットをすっかり忘れていて、さながら襟足だけばかに長いヤンキーの様相を呈した私が鏡の中にいた。

また今から散髪する体力は残っていなかったので、襟足はもう捨て置くことにしたン。

ちぎったろか、クソが!